与那原町立綱曳資料館


与那原町の歴史/沖縄戦












1941(昭16)年 分教場が與那原国民学校として独立
       中城湾臨時要塞司令部が設置され
         浜田原兵舎に500~600人が駐屯
       県鉄による部隊輸送が始まる
       太平洋戦争勃発
       那覇-與那原-佐敷間が
         国道(特35号)に認定される
   この頃、板良敷地人と崎原居住人の融和が
         進み、板良敷綱曳にも参加する
         ようになる
1943(昭18)年 軍用に當添の石垣が壊される
1944(昭19)年 江口に日本軍兵舎できる
       板良敷に特攻艇施設が建設される
       現港区付近に揚陸場が埋立てられる
       與那原国民学校が兵舎接収され
         光照寺などで分散授業を行う
       沖縄軌道(旧馬軌)が旅客輸送を停止
       学童疎開が始まる
       與那原が空襲(十・十空襲)される
       住民の離村・疎開が始まる
       山原船や荷馬車は
         徴発されて軍用優先となる
1945(昭20)年 與那原が本格的な空襲を受ける(3月)
       県鉄が運行を停止する(3月)
       與那原一帯が空襲で焼失(4月)
       與那原一帯が米軍に制圧される(5月)


昭和10年代の戦時体制下、與那原周辺には各種軍事施設が建設され、日本軍が駐留するようになります。

燃料の欠乏から盛返した馬車や山原船は、県鉄とともに徴発され軍事優先となり、最終的に壊滅してしまいました。

天然の良港であることが災いし、米軍揚陸地点となり、日本軍の存在もあって、與那原一帯は米軍の艦砲と爆撃で壊滅、廃墟となります。



綱曳情報

昭和10年代後半になると、出征兵士の武運長久も兼ねて祈願する、支度に楠木正成が登場する、ブラスバンドが参加する、など軍事色を帯びていきますが、昭和19年まで途絶えることなく曳かれました。