1429年 尚巴志の三山統一 王府時代始まる(第一尚氏) 1470年 尚円(金丸)が王位につく(第二尚氏) 1573~1588年 與那原村の綱曳が始まる(伝承) 1600年頃 上與那原村の獅子舞が記録に残る 1600~1700年代 板良敷村に當添屋取ができる 1609年 薩摩侵攻 1611年 慶長検地に四村が確認される 1650年頃 與那原村は田高324石余、 畑高155石余と記録に残る 1677年 聞得大君・月心が最初の御新下 1710年 琉球で馬艦船が建造される 1713年 琉球国由来記に琉球の綱引の記録
1728年 首里與那原街道の宮城橋が石橋に 1736~1811年 與那原村に大里間切の番所が置かれる 1742年 球陽に親川の天女降臨が記録される 1766年~ 首里山奉行所が與那原湊の材木を 管理するようになる 1769年 首里與那原街道の ヒージャー井が改修される 1791年 與那原湊が大海嘯に襲われる 1800年代 與那原湊の金武久志間切船や 薩摩航路の公用船が記録に残る 1842年 御殿山から大見武村が石敷道となる 1851年 ベッテルハイムが與那原村を訪問 1853年 ペリー艦隊水兵が與那原村を訪問 1860年 大見武村で大火、地人が村内で移住する
1600年代には大里間切の上與那原村、與那原村、大見武村、板良敷村として記録に残っており、地域全体が稲作主体の農村であったようです。
海外交易は王府によって那覇に集約され、與那原湊には琉球国内および大和(薩摩)航路が割振られ、いわば琉球の勝手口として機能するようになります。
湊には幾艘かの金武久志間切船があり、與那原村は山原から首里への材木や薪などの中継地となっており、その運行に携わる人々のために金武久志地(現中島区)と呼ばれる王府直轄地が設けられていました。
しかし、間切船のような中大型船は公用優先であり、庶民の海運はもっぱら多数の小船で賄われました。小船では運搬できない大型物や重量物には、複数の小舟を連結した組船が使用されました。組船の使用は王府時代以降、戦前まで普通に行われていたようです。
陸揚げされた公用物運搬の賦役や日々の物々交換の為の物流は、人馬道である首里と與那原を結ぶ宿道(概ね県道240号線)を使って、人肩馬背で行われました。まだ車輪が無いこの時代、公用材を首里まで運搬するのは大変な重労働であったと思われます。
この物流による首里との関わりに加え、東方(あがりかた)に起源をもつ王府(第一尚氏)の開闢神話に基づいて行われた国王の東御廻や聞得大君の御新下に、御殿山(王府由来拝所)と親川(與那原村の拝所)が休憩参拝場所として組込まれた事で、與那原の役割はさらに大きなものとなります。
綱曳情報
稲作豊穣儀礼である綱曳が、與那原村では尚永王代(1573~1588)に始まったと伝承されています。綱曳は旧6月26日のアミシの御願に行われていました。他の三村でも王府時代に始まったと推定され、現在でも独立した綱曳が行われています。