1868(明元)年 明治維新 1879(明12)年 聞得大君・真鶴金が最後の御新下 廃藩置県(琉球処分) この頃、與原と崎原の屋取できる 1883(明16)年 県令達で與那原港は 三大重要港とされる 1885(明18)年 首里與那原街道が車道に改修される 1886(明19)年 與那原村の立花濱に 露天の屠獣場が設置される 1888(明21)年 甘蔗の作付制限が解除される 1889(明22)年 馬艦船の建造が自由化される 間切の瓦葺制限が解除される 1895(明28)年頃 雨乞毛で最後の雨乞い儀式行われる 1896(明29)年 船舶の増加に伴い 船舶規則が改正される 首里警察署與那原分署が設置される
1898(明31)年 與那原村と板良敷村に大里間切の 砂糖樽検査所が設置される 上與那原村と板良敷村の 村頭に宮平助守が任命される 1900(明33)年 與那原村に郵便局あり (設置は明治7年以降) 旧四村から小学校分離の請願おこる 佐敷街道の新設工事が始まる 1901(明34)年 與那原港の金武久志往来船と 海岸の薪・材木が記録に残る 『與那原村は東方の要衝、 年々発展』と新聞記事 與那原村と大見武村の 村頭に石原宗重が任命される 1902(明35)年 與那原港の移出品に瓦が現れる 與那原港から佐敷街道工事用の 砂利運搬、人足・荷馬輓が 活況を呈する
王府時代の様々な制約がなくなる明治前期は、與那原(旧四村)にとって発展準備の時代でした。緩和撤廃された制限の中で、特に甘蔗(サトウキビ)作付制限、馬艦船(山原船)建造制限および間切の瓦葺制限の解除は、その後の与那原に大きな影響を与えたものと考えられます。
廃藩置県後、その地理的利便性から警察署、屠獣場や砂糖樽検査所と言った大里間切とその周辺地域をカバーする社会インフラが、與那原村に集中して配置されました。
特に屠獣場は、島尻地区では他に糸満に設置されたのみで、與那原立花屠獣場から広い地域に供給されていました。
この集中したインフラによって、與那原一帯は人が集まる商工業地帯として発展を開始します。
王府時代に引続き首里與那原間の物流は重要視され、首里與那原街道も車道化されますが、上り下りが激しく特に首里直前の急勾配が難所となり、本格的な車道として機能することはありませんでした。
また、首里との関わりから、警察署も首里警察署所属の分署として設置されています。