与那原町立綱曳資料館


与那原町の歴史/明治(後期)












1903(明36)年 土地整理が完了(土地私有の認可、
         稲作から甘蔗への転換進む)
       旧金武久志地で海運業始まる
       佐敷街道の
         那覇與那原間が開通(4月)
       荷馬車業が始まる
       大見武村が與那原村に合併される
       大里間切の村頭が廃止される
       佐敷街道が全線開通する(12月)
1904(明37)年 佐敷街道の開通式行われる
         余興に板良敷村の獅子舞と
         與那原村の南島ふぇーぬしまが披露される
       御殿山で與那原出身の日露戦争
         戦死者の葬儀が行われる
       記録的旱魃、與那原村や板良敷村の
         井戸から近隣に給水される
1905(明38)年 與那原村周辺で荷馬輓か
         ら荷馬車輓への転業進む
       與那原村に阿旦葉帽子工場できる
1906(明39)年 大里間切の招魂祭で上與那原村と
         板良敷村の獅子舞が披露される
       與那原村に登記事務所が設置される
       佐敷街道が県道に編入される
1907(明40)年 板良敷村が佐敷街道から
         村製糖場の農道を整備する
1908(明41)年 町村制施行
         三村は大里村の字となる
       金武久志間切の薪値上げを巡って
         與那原で不買運動が起こる
   この頃、當添のハーリー始まる
       字與那原でも
         臼太鼓うしでーくが盛大に踊られる
1909(明42)年 屋根付の立花屠獣場が新築される
       字與那原青年会が設立される
1910(明43)年 鯨干瀬ほかに赤色浮標が設置される
       屋根付の與那原市場が新築される
       那覇與那原間で客馬車始まる
       字與那原の課税等級が5等に
         引き上げられる(近隣地域は
         6等据置)
   この頃、與那原に泡盛醸造所できる
1911(明44)年 『字與那原は著しく発展し二階建て
         瓦屋も普及』と新聞記事
       與那原分署前掲示板に
         天気予報の掲載が始まる
  明治期末、當添(現公民館敷地)に
         製糖小屋できる


明治36年の土地整理完了と佐敷街道(事実上は與那原街道)の開通によって、與那原一帯の発展は強力に加速されました。

與那原に限ったことではありませんが、土地整理によって土地私有が認められたこと及びその翌年が記録的大旱魃だったことから、旱魃に弱い稲作から干ばつに強くかつ換金性の高い甘蔗作への転換が急激に進みました。

王府所有地であった旧金武久志地が土地整理で解放されると、それを首里や那覇からの居住人が購入、そこを拠点に馬艦船(山原船)による海運業を起こします。また同年に那覇と與那原を結ぶ佐敷街道が開通すると、與那原村および周辺地人による荷馬車業も始まります。この海運業と荷馬車業が連携することで、與那原村は物流拠点としての地位を確立しました。

明治41年の町村制施行で旧四村は大里村の字となりますが、明治43年には那覇與那原間で客馬車運行も始まり、與那原周辺はさらに活気ある地域となりました。字與那原のみ課税等級が引き上げられることからも、その繁栄が伺えます。

また明治半ば以降、日本海軍艦船の寄港地となり、與那原濱から上陸した兵士や艦船の見物客で賑わい、與那原の一風物となっていました。



綱曳情報

地域の稲作は衰退していきますが、稲作豊穣儀礼である旧四村の綱曳は維持されました。特に経済発展した與那原村の綱曳は規模を拡大し、明治35年の新聞にその賑わいが報じられています。

この当時の與那原村の綱曳は、村建に関わった宗之増7門中の行事(門中綱)として行われていました。