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町内の中でも古集落に属する上与那原区の綱曳は、集落の中通り(メーミチ)にて行われます。綱作りは戦前からノロ殿内(ドゥンチ)広場で行われていました。稲藁が入手困難になった時期に茅綱へと変わりましたが、昭和58年から茅綱からロープに変更されました。午前中に集落の拝所の拝みを終えた後、綱曳は夕方6時半頃に行われます。昔は綱曳の後、ノロ殿内の広場で遅くまで角力(すもう)をしたり、ウンサク(お神酒)が振る舞われ、各自家に持ち帰って仏壇に供えた後、ウサンデー(直会)したそうです。
綱曳の前に上与那原の獅子舞いが踊られる。
境界線ははっきりしていない。各自自分の住んでいる所がどこに属しているか認識しており、おのずと自然に分かれている。ちなみに上与那原では、東が雄綱、西に雌綱となっている。
大見武区は、町西部に位置し、浜田区に隣接する集落です。集落は三班に分かれ、一班は屋取(ヤードゥイ)、二班は昔からの本集落、三班は運玉森の後背地にある運玉屋取となっています。大見武の綱曳は、地人(ジーンチュ)である二班だけで行われている行事で、一班、三班の参加はありません。昭和の初め頃に藁綱から茅綱に切り替え、今では町内で唯一の茅による綱曳を行っています。勝負は、上が勝つと良いと云われ、一回目は上が勝つように、二回目は下を勝たせるようにしているそうです。
綱曳後には集落センターの広場にて角力(すもう)が行われます。
町道を境に上(イー)と下(シチャ)に分かれている。上は北側で雄綱、下が南側で雌綱、門中に関係なく集落全戸に参加を呼びかけている。
板良敷区は、町の東側海岸に面した集落で、板良敷集落と崎原屋取(ヤードゥイ)の2つの集落から成り立っています。戦前の綱曳は、支度を3~4人も乗るほどの大綱でしたが、戦後は藁の入手が困難になったことでロープに切り替わりました。そのため、現在では支度はいません。本来は、板良敷集落だけの行事でしたが、昭和15年頃より、崎原屋取の人も綱曳に参加するようになったそうです。与那原大綱曳と異なり、東が雄綱、西が雌綱となっています。
十字路の両端に立てられた旗頭には「乞慈雨」「招仁風」の文字が書かれている。
公民館前の道を軸に東西に分けている。与那原大綱曳と異なり、東が雌綱西が雄綱となっている。