与那原町立綱曳資料館


与那原町の文化財/久茂久岩 [町指定文化財]


1999(平成11)年4月21日に町指定文化財に指定された。


第二尚氏時代、琉球との貿易に従事する中国船が当添の沖で難破し、十数名の死者を出したので部落の人達が、唐船小堀に漂着したこれらの遺体を収容し、海岸近くの久茂久岩くむくじーの上に丁重に葬って霊を慰めたといわれる。後に、海神たる龍宮の神(ニライカナイの神)をも招請し、併せて祭った。その後、久茂久岩は部落の鎮めとして尊崇する所となり、旧正の初拝み、初起こし、ハーリーなど海上安全、豊漁を祈願する所となった。

また古老のいい伝えによると、壺に水が満つと豊作で、台風もなくユガフーになるといい、逆に干上がってしまうと餓死、飢饉が訪れるということであった。戦前は聖地としてあがめられ汚物を持って付近を通ることも禁じられたということである。

久茂久岩の由来には更に異説があり、難破した唐船の乗組員の遺体が、長い間自然のままにさらされていたが、大里間切西原村の稲福某という人が、田畠を耕すため当添の地におりたところ、その人骨の惨状に驚き、遺骨を取り集めて久茂久岩に合葬した。今の部落はその後、数十年たってできたということである。

与那原町の史跡(1995)より


久茂久岩の壺 当添 金城傳吉(大正8年7月14日生、昭和62年9月27日聴取)

久茂久岩には、蓋されておる三つの壺があって、それに水が入っておる。その御神うかみの側のギチチャー(ゲッキツ)の林になっているところに置いてありましたがね、この水の毎日の上下がある。ほいで、蓋の割れたものなんかもありますがね、これもいつも一杯しているけど、ボウフラも育たなければ、ゴミも入らないというんだ。

昔は、この部落を三つに分けて、南、中、北でね、すべての物事が進められていたわけよ。この壺の水の量でね、こんどは南の方が栄えてる、こんどは中の方が、こんどは西の方がって、これはもう毎日のように行って見るわけよ。

よなばるの民話(1990)より