与那原町立綱曳資料館


与那原町の文化財/内原子


方言でウチバルシーという。古島時代、大里城落城時の、板良敷を領地とする武将(兵頭・ヒョーガシラ)であったと伝わる。公民館建物に隣接して拝所が建てられている。戦後、現在のノロ殿の拝所のように長方形の拝所であったが、1958年9月に同じ場所に御願所として再建し、1982年1月には公民館建て替えにあわせて再び建て直され、現在はブロック建てである。

板良敷誌(2014)より


もともとは大里間切与那嶺村(雨乞毛・古島)にあったが、内原子の徳をしのんで板良敷村に迎えたと伝えられている。

与那原町の史跡(1995)より


内原子とヒートゥヤー

板良敷 新垣カメ(明治44年3月8日生)/昭和62年9月28日聴取

この内原子はね、今帰仁の新里家の人で、大里按司の家来であったって。だけど、昔、戦船がこっちに寄せて来たからね、この人捕まえて殺すつもりであったんだろう。

そうしたら、戦船から来た人は、この人が内原とはわからないで、「内原という人は、どこにおるか。」と、この人に問うて来ているらしいがね。この人が内原子であるんだが、わからなかったんだよ。

そうしたら、内原子本人が大きい石のヒートゥヤーとだったかね、これを一人で軽々と運んできてね、「おまえたち、煙草でも吹きなさい」と言ってね、持って来て置いたって。

この煙草盆は、サンパチ(300斤/約180Kg)かかりょったって。だから、それ動かすことできなかったから、逃げて行ったとの話。内原子はたいへんな力持ちであったって。「はっしぇ、もうここの内原子いう人はたいへんな人だ。どれほどの武士かわからない。」と言って、捕まえに来た敵は、もう遠くまで逃げて行ってたって。

よなばるの民話(1990)より